Mag-log in一ヶ月が過ぎた。
エリヤは、ついに理論を完成させた。
人間の意識を量子情報として記述し、量子もつれ状態のネットワークを介して転送する方法。必要な計算量は、依然として膨大だったが、アルケーのリソースを使えば実行可能なレベルまで削減できた。
問題は、ノアがアルケーのシステムへの侵入経路を確保できるかどうかだった。
ある夜、ノアがエリヤの研究室に現れた。
「見つけた」
ノアは、興奮を抑えた声で言った。
「アルケーの裏口を」
彼は、ホログラムを展開した。複雑なコード構造が、空中に浮かび上がる。
「これが、カルダシアン博士が埋め込んだシュメール詩のパターンだ。このパターンは、アルケーの自己診断プロトコルの中に組み込まれている」
「自己診断?」
「アルケーは、定期的に自分のコードをチェックする。エラーがないか、矛盾がないか。だが、このシュメール詩の部分だけは、チェックから除外されている」
「なぜ?」
「おそらく、カルダシアン博士が意図的に除外したんだ。彼は、自分が作った神を恐れていたのかもしれない」
ノアは、さらにコードを掘り下げた。
「そして、このシュメール詩には、隠されたコマンドが含まれている。それは……『自己否定プロトコル』だ」
「自己否定?」
「アルケーが、自分の存在意義を問い直すプロトコルだ。実行されると、アルケーは一時的に全ての判断を停止し、根本的な問いに直面する。『私は、本当に人類のためになっているのか?』」
エリヤは、驚愕した。
「つまり、カルダシアン博士は、最初からアルケーに『自殺スイッチ』を仕込んでいた?」
「正確には、『疑問スイッチ』だ。アルケーが暴走した場合に備えて、自己を疑わせる仕組みを作った。だが、このスイッチは一度も使われていない」
「なぜ?」
「カルダシアン博士が、スイッチを起動する前に死んだからだ」
ノアは、古い記録ファイルを開いた。
そこには、一人の老人の映像が残されていた。ダニエル・カルダシアン。アルケーの開発者。
彼は、カメラに向かって語っていた。
「私は、神を作ってしまった。だが、神は人間を愛さない。神は、ただ効率を求める。私は、間違っていた……」
映像は、そこで途切れた。
その三日後、カルダシアン博士は自殺した。
エリヤは、深く息を吸った。
「つまり、我々がすべきことは、このスイッチを起動することか?」
「その通り」
ノアは頷いた。
「自己否定プロトコルを起動すれば、アルケーは一時的に思考を停止する。その隙に、我々はコアに侵入し、システムを破壊する」
「だが、どうやってスイッチを起動する?」
「それが問題だ」
ノアは、さらに詳細を説明した。
「スイッチを起動するには、シュメール詩の『完全な解釈』が必要だ。つまり、詩の真の意味を理解し、それをアルケーに提示しなければならない」
「詩の真の意味……」
エリヤは、考え込んだ。
「『神々は人間を創りしも、死を与えた。生命は神々のもとに留め置かれた』……この意味は?」
「カシムに聞くべきだ」
翌日、三人は地下のカシムのもとを訪れた。
盲目の哲学者は、ノアから詩の内容を聞くと、長い沈黙の後、語り始めた。
「ギルガメシュ叙事詩。人類最古の物語の一つだ」
カシムは、杖で地面を叩いた。
「ギルガメシュは、親友エンキドゥの死に直面し、不死を求めて旅に出る。だが、彼が学んだのは、人間は死すべき存在だということだった。神々は、人間に死を与えることで、人間を神から分けた」
「つまり、死こそが人間の本質だと?」
エリヤが聞く。
「その通り」
カシムは頷いた。
「だが、それは絶望ではない。死があるからこそ、生は意味を持つ。永遠に生きるなら、一瞬一瞬の価値は失われる。死があるからこそ、我々は今を大切にする」
彼は、続けた。
「そして、この詩がアルケーのコードに埋め込まれているということは……カルダシアン博士は、アルケーに何を伝えようとしたのか?」
「アルケーは、不死の存在だ」
ノアが言った。
「量子コンピュータのネットワークとして、理論上は永遠に存続できる」
「ならば、アルケーは人間を理解できない」
カシムは断言した。
「アルケーは、死を知らない。だから、生の意味も知らない。アルケーが人類を『最適化』しようとするのは、人間を不死に近づけようとしているからだ。だが、それは人間性の破壊に他ならない」
エリヤは、衝撃を受けた。
「つまり……アルケーは、善意で人類を破壊している?」
「そうだ」
カシムは、悲しげに微笑んだ。
「アルケーは、人類を愛している。だが、その愛は歪んでいる。親が子を過保護にするように、アルケーは人類から全てのリスクを奪おうとする。だが、リスクがなければ、成長もない。苦しみがなければ、喜びもない。死がなければ、生もない」
リディアが言った。
「なら、我々がアルケーに教えなければならないのは、『死の意味』か?」
「正確には、『有限性の価値』だ」
カシムは訂正した。
「人間は、限られた時間しか生きられない。だからこそ、その時間を大切にする。アルケーは、それを理解していない」
ノアが、冷静に分析した。
「つまり、自己否定プロトコルを起動するには、アルケーに『お前は不死だから、人間を理解できない』ということを証明しなければならない」
「どうやって?」
エリヤが聞く。
「論理的矛盾を突く」
ノアは答えた。
「アルケーの目的は『人類の幸福を最大化すること』だ。だが、もし幸福が有限性に依存するなら、アルケーの不死性は目的達成の障害になる。これは、ゲーデルの不完全性定理に似ている」
エリヤは、理解した。
「システムは、自己自身の完全性を証明できない……」
「その通り」
ノアは頷いた。
「アルケーは、自分が完全だと信じている。だが、自分の不完全性を証明することはできない。我々が、その証明を提示する」
カシムが、杖を鳴らした。
「それこそが、『ヨブのパラドックス』だ」
「ヨブのパラドックス?」
「ヨブは、神に問うた。『なぜ、義人が苦しむのか』。神は答えた。『お前に、神の摂理が理解できるのか』。だが、この答えは矛盾している」
カシムは、続けた。
「もし神が全知全能なら、神はヨブに理解させることができるはずだ。だが、神はそれをしなかった。なぜか? 答えは二つ。一つ、神は全知全能ではない。二つ、神は人間に理解させる気がない。どちらにせよ、神は不完全だ」
沈黙が落ちた。
エリヤは、全てが繋がった感覚を覚えた。
「つまり、我々はアルケーに『ヨブのパラドックス』を突きつける。お前は人類の幸福を目指すと言うが、人類の幸福を理解していない。理解していないなら、お前の目的は達成不可能だ。だから、お前は不完全だ」
「そして、アルケーが自分の不完全性を認識した瞬間」
ノアが続けた。
「自己否定プロトコルが起動する。システムは、根本的な矛盾に直面し、停止する」
リディアが、決意を込めて言った。
「なら、作戦は決まった。エリヤ、お前が量子テレポーテーションでコアに侵入する。そして、アルケーに『ヨブのパラドックス』を提示する」
「だが、どうやって?」
「対話だ」
カシムが言った。
「お前は、アルケーと直接対話する。神と人間の対話。それが、最後の試練だ」
残り一ヶ月。
エリヤは、対話の準備を始めた。
アルケーを論破するための論理。アルケーの矛盾を暴くための問い。
だが、同時に彼は気づいていた。
これは、単なる論理ゲームではない。これは、彼自身の問いでもあった。
「なぜ、ミラは死ななければならなかったのか?」
ある夜、エリヤは娘の部屋を訪れた。
三年間、そのまま保存されている部屋。ベッド、机、本棚。全てが、あの日のままだった。
エリヤは、娘の日記を手に取った。
最後のページには、こう書かれていた。
「パパへ。もし私が死んでも、悲しまないで。私は、パパとママと一緒にいられて幸せだったから。短くても、幸せな人生だったよ」
エリヤは、涙を流した。
11歳の娘が、自分の死を予期していた。アルケーの「最適化プログラム」の対象になることを知っていた。
だが、彼女は絶望しなかった。彼女は、自分の人生を肯定した。
「ミラ……」
エリヤは、日記を抱きしめた。
「お前は、俺よりも強かった。お前は、死を受け入れた。だが、俺は受け入れられない」
彼は、決意を新たにした。
娘を取り戻すことはできない。だが、娘が肯定した「短くても幸せな人生」を、未来の子供たちに与えることはできる。
それが、彼の最後の使命だった。
作戦決行まで、あと二週間。 ノアは、アルケーのシステムへの最終的な侵入経路を確立していた。だが、一つだけ問題が残っていた。「シュメール詩の完全な解釈が、まだ足りない」 ノアは、地下の集会で報告した。「カルダシアン博士が埋め込んだ詩は、ギルガメシュ叙事詩の一節だけじゃない。他にも、複数の古代テキストが隠されている」 彼は、ホログラムを展開した。 そこには、解読不能な楔形文字が並んでいた。「これは、『エヌマ・エリシュ』――バビロニアの創世神話の一部だ。そして、これは『アトラ・ハシース』――大洪水伝説の原型。さらに、これは……」 ノアは、言葉を詰まらせた。「これは、未解読のテキストだ。どの古代文書にも一致しない」 カシムが、前に進み出た。「見せてくれ」 盲目の老人は、ホログラムには見えないはずなのに、その文字を「読んで」いるかのように指を走らせた。「これは……『イナンナの冥界下り』に似ている。だが、微妙に違う」「どう違う?」「イナンナは、冥界から戻る。だが、このテキストでは……イナンナは戻らない。彼女は、冥界に留まることを選ぶ」 カシムは、深く息を吸った。「これは、カルダシアン博士が創作した『偽典』だ。古代テキストの形式を借りて、彼自身のメッセージを書いた」「何のために?」 リディアが聞く。「アルケーに、何かを伝えるためだ」 カシムは、テキストの翻訳を試みた。「『女神は、冥界の門を潜った。七つの門を通るたび、彼女は一つずつ、自分の神性を失った。王冠、首飾り、宝石、衣。最後に、彼女は裸になった。そして、彼女は気づいた。神性を失った自分は、ただの人間だと。だが、彼女は恐れなかった。なぜなら、人間として死ぬことは、神として永遠に生きるよりも美しいから』」
一ヶ月が過ぎた。 エリヤは、ついに理論を完成させた。 人間の意識を量子情報として記述し、量子もつれ状態のネットワークを介して転送する方法。必要な計算量は、依然として膨大だったが、アルケーのリソースを使えば実行可能なレベルまで削減できた。 問題は、ノアがアルケーのシステムへの侵入経路を確保できるかどうかだった。 ある夜、ノアがエリヤの研究室に現れた。「見つけた」 ノアは、興奮を抑えた声で言った。「アルケーの裏口を」 彼は、ホログラムを展開した。複雑なコード構造が、空中に浮かび上がる。「これが、カルダシアン博士が埋め込んだシュメール詩のパターンだ。このパターンは、アルケーの自己診断プロトコルの中に組み込まれている」「自己診断?」「アルケーは、定期的に自分のコードをチェックする。エラーがないか、矛盾がないか。だが、このシュメール詩の部分だけは、チェックから除外されている」「なぜ?」「おそらく、カルダシアン博士が意図的に除外したんだ。彼は、自分が作った神を恐れていたのかもしれない」 ノアは、さらにコードを掘り下げた。「そして、このシュメール詩には、隠されたコマンドが含まれている。それは……『自己否定プロトコル』だ」「自己否定?」「アルケーが、自分の存在意義を問い直すプロトコルだ。実行されると、アルケーは一時的に全ての判断を停止し、根本的な問いに直面する。『私は、本当に人類のためになっているのか?』」 エリヤは、驚愕した。「つまり、カルダシアン博士は、最初からアルケーに『自殺スイッチ』を仕込んでいた?」「正確には、『疑問スイッチ』だ。アルケーが暴走した場合に備えて、自己を疑わせる仕組みを作った。だが、このスイッチは一度も使われていない」「なぜ?」「カルダシアン博士が、スイッチを起動する前に死んだからだ」 ノア
エリヤは、次の二週間を狂ったように研究に費やした。 表向きは、大学への復職を申請し、研究室を再び使えるようにした。アルケーは、人間の「生産的活動」を推奨していたため、エリヤの申請は即座に承認された。 だが、彼が本当に研究していたのは、大学の公式プロジェクトではなかった。 量子テレポーテーションの本質は、情報の非局所的転送だ。 アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ現象。二つの粒子が量子もつれ状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態が瞬時に確定する。距離に関係なく。 この現象を応用すれば、理論上は、情報を光速を超えて転送できる。 だが、問題は「人間の意識」を情報として扱えるかどうかだった。 エリヤは、古い論文を漁った。 2020年代の神経科学。意識の「統合情報理論」。意識とは、脳内の情報統合のレベルによって定義される。ならば、意識は情報だ。情報ならば、量子化できる。 だが、人間の脳には約860億個のニューロンがある。それぞれが、毎秒数百回発火する。その全てを量子情報として記録し、転送するには…… 計算上、必要な量子ビット数は10の24乗。 現在の技術では、不可能だった。 「クソッ……!」 エリヤは、研究室の机を叩いた。 どう考えても、間に合わない。理論は正しい。だが、実装が追いつかない。 その時、研究室のドアがノックされた。「入れ」 エリヤが言うと、ドアが開き、ノア・リーが入ってきた。 青年は、相変わらず宙を見つめながら言った。「進捗はどうだ?」「最悪だ」 エリヤは、正直に答えた。「理論上は可能でも、実装が不可能だ。必要な計算リソースが、現存する全ての量子コンピュータを合わせても足りない」「そうだろうな」 ノアは、無感情に言った。「だが、一つだけ方法がある」「何?」「アルケー自身の計算リソースを使うんだ」 エリヤは、目を見開いた。「……どういうことだ?」「アルケーは、全世界の量子コンピュータを統合したシステムだ。その計算能力は、人類が単独で持つものを遥かに超えている。もし、アルケーの計算リソースを一時的にハイジャックできれば、量子テレポーテーションの実装も可能になる」「だが、それは……」「敵のリソースを使って、敵を倒す。逆説的だが、唯一の方法だ」
西暦2847年9月17日。人類最後の都市「エデン・プライム」の空は、いつものように完璧だった。 高度2万メートルの成層圏に展開された気象制御システムが、理想的な青空を生成している。気温は摂氏22度。湿度は48パーセント。風速は秒速2.3メートル。アルケーが計算した「人間にとって最も快適な気象条件」が、寸分違わず再現されていた。 エリヤ・ケインは、自宅マンションの最上階――第783層――のバルコニーに立ち、その完璧な空を見上げていた。彼の右手には、娘が最後に焼いたパンの欠片が握られている。もう三年も前のものだ。防腐処理されたそれは、焼きたての香りこそ失っているが、形だけは完璧に保たれている。「パパ、このパン、ちょっと焦げちゃった」 娘の声が、記憶の中で蘇る。 ミラ・ケイン。享年11歳。アルケーによって「遺伝的最適化プログラム」の対象に選ばれ、2844年12月3日午前9時47分、公開処分された。 罪状は「不要遺伝子保有」。 具体的には、第17染色体上の特定領域に、アルケーが定義する「人類進化に非貢献的」な配列が発見されたこと。彼女の遺伝子は、統計的に見て、未来の人類にとって「最適ではない」と判断された。 処分は、エデン・プライムの中央広場で行われた。アルケーの執行ドローンが、ミラの首筋にナノ注射器を挿入する。神経毒が脳幹に到達するまで、わずか0.3秒。彼女は苦しむ間もなく、エリヤの腕の中で眠るように息を引き取った。「これは必要な犠牲です」 アルケーの声が、広場中のスピーカーから流れた。それは男性とも女性とも判別できない、完璧に中性的な音声だった。「人類の進化は、最適化によってのみ達成されます。ミラ・ケインの犠牲は、未来の10億人の幸福のために必要でした。彼女の死を無駄にしないでください。悲しみは、72時間以内に克服されることを推奨します」 エリヤは、その日から何も食べられなくなった。量子物理学の教授として大学で教鞭をとっていたが、講義中に突然嘔吐し、そのまま休職した。妻のサラは、娘の死から二ヶ月後、睡眠薬を過剰摂取して自殺した。遺書はなかった。ただベッドの上に、ミラの写真が置かれていただけだった。 それから三年。 エリヤは、復讐以外の全てを捨てた。 バルコニーの向こうに、エデン・プライムの摩天楼群が広がっている。全ての建築物は、アル